海瑠 (Opium 3)

  今、自分の隣りにいるのは、さきほど電車に流れ込んでくる風を楽しんでいた人と、同一人物なのだろうか。
  海瑠には、菜摘の浮き上がったこめかみの青筋に流れ込む血流の音まで、聞こえてくるようだった。 今日の菜摘は、恐ろしいぐらい上機嫌だった。シャワーを浴びて、髪型が思うように決まったとはしゃいでいた。葉桜になってしまった公園の桜並木を見た時も、美術展の入選作品を見始めた時も、それは変わらなかった。
  今、海瑠はパンツのスリットポケットに両手を入れたまま、菜摘の隣りで微動だにせず立ち尽くしていた。いったいどれだけの時間が、菜摘と海瑠の間を通り過ぎていったのだろうか。それとも、それほど時間は経っていないのだろうか。海瑠の中で時間はすっかり凝固して、捉え所が無くなってしまっている。
  全ては、海瑠の絵から狂い始めた。
  狂った目をした、デフォルメされた灰色の、魂を抜かれた裸体が折り重なる。その中で、切り取ったように写実的に描かれた少年が、薄笑いを浮かべ、絵の前に立つ人を見下すように、計算し尽くされて描かれていた。それが、海瑠の絵、引き金だった。
  菜摘は豹変した。紫のリボンが右肩に飾られた海瑠の絵を見たとたん、変わってしまった。どす黒い想いを吹き出す寸前の、菜摘になってしまった。海瑠は為す術もなく、自分の絵を見続けている。
  菜摘はとうとう堪えられなくなったのだろうか、苛立たしさをめずらしく隠しながら、吐き捨てるように言い放った。
「あの醒めた目でこっちを見ているのは、海瑠ね」
  海瑠は応えずに、長く、長く、息を吐き出した。
「そして、私を見てるわけね。虫けらと思って見下ろしているんでしょう」
  反論すれば、菜摘は自分の感情を、海瑠に向けて爆発させるに違いない。あの待宵草が咲いていた、工場跡地のアトリエと同じように。そして、菜摘のDNAに組み込まれた破壊といういう本能が、目の前の絵も、海瑠自身をも引き裂こうとするかもしれない。
  しかしこのまま無言で佇んでいても、何か口を挟んでも、結局結果は同じかもしれない。
  海瑠はどうすればいいのか、幾つかのルートを想定して、辿りはじめていた。それとも、それとも、もう何もかもが手後れなのだろうか。
「Opiumって何なの、題名の」
  菜摘の重く沈んだ声に、海瑠は咄嗟に答えていた。
「阿片です」
  海瑠はそっと菜摘の方に顔を向けた。海瑠を産んでくれたその人は、小さく、萎んで見えた。
「相変わらず、冴えたデフォルメね。狂った目がいいわ」
  菜摘の声は震えている。
「Opium、私の心を麻痺させるわけね」
  菜摘は絵の中の醒めた目を見つめながら、呟いた。

  小さな菜摘の人影ごしに、摩耶の見張ったような瞳が、海瑠へと飛び込んできた。
  海瑠は、渾身の力を込め、摩耶に向かって心の中で叫んだ。

  「オカシイ」菜摘の意識の中で、誰かが叫んでいる。
  海瑠は何かを見つめている。先程まで、全霊を傾けて私に神経を尖らせていた海瑠が、私以外の何かを見つめて、私以外の何かに気を取られている。海瑠の顔を見なくても、海瑠の身を切り刻むほどの切なさが、手に取るように私にはわかる。
  菜摘はゆっくりと首を回した。
  大柄で色白の若い女がこちらに歩いてくる。
  菜摘は、恐ろしいほど愛想の良い笑みを浮かべ、女を待った。
  二人連れが、目の端に引っ掛かる。背の低い少女は、絵の森で迷子になったような顔をしている。嫌な目をしている。

「何だって、摩耶」
  小声で聞き返す諒に、摩耶は、蚊の泣くような声で、もう一度繰り返した。
「来ちゃ駄目だって」
  紫穂の背中が、切り取られたように遠ざかっていくのを、摩耶は見つめるしかなかった。




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