海瑠 (Opium 2)

  菜摘は柔らかいピーチピンクのスーツでやって来た。髪も下ろしているせいか、いつもより随分華やいで見える。海瑠が菜摘のためにと選んだ、シルクオーガンジーのスカーフの、ピンクやライラックやゴールドが、菜摘の顔を明るく照り映えている。風が戯れて揺らすスカーフは、飛天の羽衣のようでもある。
  海瑠は自分がエクリュのジャケットとパンツを選んできたことに、内心ほっとしていた。これなら、菜摘のことを引き立ててくれるだろう。何が引き金になるかもしれない、そう考えながら、電車の振動に身を委ねている菜摘の眉間の縦皺を、そっと垣間見た。
「あのあたりかしら、昔の海瑠の隠れ家」
  菜摘の通った鼻筋の先に、高層マンションが聳えている。
「そうですね」
  海瑠は無意識のうちに、左の前腕の傷痕を右手でかばっていた自分に驚き、自然に振る舞いながらと勤めて、右手で髪を掻き上げた。
「月見草、だった?」
「ええ、通称はそうです」
「本当の名前は?」
「待宵草です」
「そう。……でも、嫌いだわ」
  海瑠は血が滲むほど、唇を噛んだ。
「いい風ね。桜が散って、ホッとするわ」
  菜摘はめずらしく、少女のように微笑んだ。

「葉桜になっちゃった」
  カテドラルの塔に載っている金のクロスが、キラリと光った。
「三人ともフランス語のクラスが一緒なんて、偶然だよね」
  諒のちぐはぐな応えに、摩耶は自分の声が諒に届かなかったことに気付いた。
  そんな摩耶の心の動揺も知らず、諒は親しげに摩耶と紫穂に微笑みかけている。
  紫穂と見に行った掲示板で、ばったり諒と出くわした。待ち合わせをしてもなかなか会えないのに、不思議だった。3限目のフランス語は、休講だった。
  摩耶は黄緑色のトンネルを見上げながら、流れに逆らわず、諒の話しに添っていこうと決めた。
「でも、どうして同じクラスなの? 出席番号順だったら、諒君とは離れるはずでしょう。それとも、成績順?」
  摩耶の言葉に、紫穂がカラカラと笑った。
「出席番号に決まってんジャン!!」
  紫穂はそう言って、摩耶のおでこを、人差し指で小突いた。
「いい、この学校の出席番号は、アルファベット順に並んでるの。アーメンのガッコだもん。おわかり?」
  少しのけぞった摩耶は、威勢のいい紫穂の言葉に押されるよう体を戻して呟いた。
「そうだったの」
  紫穂は片方の眉をツンと突き上げて、目の端で摩耶を見つめている。
「私、この東京砂漠で摩耶が生き残れるか心配だわ」
  神妙な顔をして、諒が本気で頷いている。
「そうだろ、なんかほっとけないだろ」
「ホント、ほっとけないわね」
  紫穂と諒は、まるで摩耶の保護者のような口振りで、首を縦に振っている。
  摩耶は上目遣いに二人の横顔を見た。
  目の前にいる二人の同級生は、摩耶の目から見ても、大人っぽかった。それに比べると、自分が頼りなげで、子供っぽく思えてしまう。自分自身の一番嫌っている部分を、ポンとさらけ出されたようで、摩耶は泣きたいような気分になった。
  急に、紫穂が後ろ手に手を組み、スキップをしながら、諒と摩耶の前に躍り出た。
「でもね、頼んないように見えて、一番しっかりしてんのかもしれない、摩耶って」
「どうして?」
  諒の質問に、サックリと紫穂は答えた。
「なんだかんだ言ったって、摩耶の言ったとおり、上野に向かってるじゃない、私たち」
「そうだね、リゾット抜きでね」
  紫穂と諒が共謀者のように、クスクスと笑った。
  ほんの少し、黒い気持ちが心に芽生える。
「そんな恐い顔しない。誉めてんだもん」
  紫穂がムッツリした摩耶の顔を覗き込んでいる。
  諒が優しく摩耶の肩を叩いた。
「休講にしてくれたフラ語のセンセに、感謝しなきゃね、摩耶」
「うん」
  黒い気持ちの芽を摘み取ろうと、摩耶は顔を上げた。微風が、摩耶の髪を掻き上げていく。



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