海瑠 (Opium 4)

  ティーラウンジは、平日のせいか閑散としている。
  上機嫌の菜摘は、木漏れ日の美しいテーブルに、人数分のケーキセットを持って来るように、ウエイターに言いつけた。
  ウエイターが背中を向け、五人の人間に緊張が走った。それを打ち砕くように、菜摘が口を開いた。
「皆さん、絵をお描きになるんですの?」
「遙さんと私は。舷内君は、ドラムを叩いてるそうです」
  紫穂が、にこやかに答えた。つられて、諒が、ひょこんと首を縦にしゃくった。
「素敵ですわね」
  菜摘の丁寧で肌触りの良いはずの言葉を聞いても、摩耶は背中に氷の塊を押し付けられたようだった。摩耶の斜め前にいる、海瑠の母親と名乗る人の瞳は、顔は笑っていても、一向に笑ってはいなかった。敵意に満ちた一瞥が、ティーラウンジに入る寸前、摩耶に射られたような気がしていた。
  ふと見た海瑠の表情は、いつもと同じように優しげだったが、少し蒼ざめている。キリキリとした緊張感が、その柔和な表情の下から滲み出ている。
  摩耶はなぜか、苛立たしいほど海瑠を守りたい自分の気持ちと、これ以上海瑠とは係わりを持ちたくないと思う自分の気持ちとに、真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。
  菜摘は美しい刺繍のポーチを取り出した。慣れた手つきで、細い金色のライターを取り出す。繊細そうな、白く、長い指は、海瑠のそれとよく似ている。
「海瑠、買ってきてくれない。切らしたみたいなの」
  菜摘は慣れた手つきで一万円札をテーブルの上に載せ、右手で海瑠の前へと押しやった。
「ええ」
「タバコですか?」
  海瑠の返事を遮るように、諒が菜摘に尋ねた。
「僕が、行ってきましょうか」
  菜摘は、諒を無視した。全くそこに諒が座っていないかのように、完全に。ウエイターが配り始めたコーヒーカップを、焦点の合わないような目で見つめながら。
「海瑠、行ってきて」
  海瑠は静かに席を立ち、ゆっくりと背を向けた。

「あの人が、どこで絵を描いているかご存知?」
  菜摘の発した『あの人』の一言に、摩耶は電流が走ったように、ピクンと反応した。
  目を上げた摩耶を、メンソールの煙草に火を点ける菜摘の姿が、叩きのめした。
  菜摘は俯き加減に小首を傾げ、遠くを見るような、それとも何も見ていないような目つきで、テーブルの一点を見つめ、薄紫の煙を吐き出した。
「部室では、描いていないようですってね。また何処かに、隠れ家を作ってるに違いないわね」
「隠れ家って、何ですか」
  おずおずと聞く紫穂の問いに、菜摘は素通りしていく。
「絵のためなら何でもするんですよ、何でも」
  菜摘は、ミルクも砂糖も入れていないコーヒーを、スプーンでぐるぐるとかき回し始めた。
「カンバスを打ち付けた釘を、木枠から引き抜くのは、敗北なんですって。だから、どの絵にも命を塗り込めている。……その絵をどうにかしようものなら、狂ってしまう」
  菜摘の眉間の縦皺が、一段と深くなった。
「自分を愛しているのよね」
「僕は絵の事、わからないけれど、黛先輩の絵は凄いですね」
  菜摘の立てたスプーンの金属音が、諒を拒絶した。緊張感が、より研ぎ澄まされていく。嫌な空気が、三人を絡め捕る。
  菜摘の指先から立ち昇る、白い龍のような煙が、為すがままに流れていく時間を、形として見せつけていた。
「絵が描けなくなったこと、おあり?」
  菜摘はゆっくり摩耶へと視線を移した。
  摩耶は幽かに首を横に振った。
「空っぽの人間には、描けないのよ」
  菜摘は灰皿に、短くなってしまった煙草を擦り付けた。
  この人は、自分自身に話し掛けているのだ、私達にではなく。自分だけで、世界が完結しているのだ。
  はらはらと顔に掛かる前髪を、掻き上げようともせずに話し続ける菜摘を見て、そう摩耶は感じ取った。
「あの人には、描けなくなるなんて、理解できないでしょう。描くことが全てなの。見たものしか、描けないの」
  菜摘は大きく溜め息を吐き出すと、座っている椅子の背もたれに崩れるように体を埋めた。
「だから、目を背けないの」
  菜摘の目が、生き返った。
  摩耶にも、背後から誰かが近付いてくる気配が感じ取れた。
「菜摘さん、すみません、お待たせしてしまって」
  息を少し弾ませた海瑠が、菜摘の前に、ペパーミントグリーンがアクセントになった白い箱を静かに置いた。
  摩耶のあまり見たことのない煙草だった。目を上げると、海瑠の横顔があった。
  ピンクベージュの口紅が付いた吸い殻を見つけたのか、一瞬、海瑠の顔が曇った。
「疲れたわ、海瑠」
「──わかりました」
  悟ったように、海瑠は摩耶達に顔を向けた。
「今日は、わざわざ、ありがとう。すみませんが、お先に失礼します」
  海瑠は菜摘の椅子を引いて、労わるように立ち上がらせた。
「どうぞ、ゆっくりしていってください」
  海瑠の微笑みにつられて、三人は目礼を返した。
  お茶をご馳走になったお礼を言うことも忘れ、菜摘と海瑠の後ろ姿を、三人は固唾を飲んで見守った。




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