海瑠 (集束4)

  階段を駆け上がったせいか、こらえても、摩耶の結んだ口元から弾んだ息が零れ出る。
  四階にある階段教室は、学生で溢れかえっていた。
  通路に、ノロノロしか動かない列ができている。学生は席を吟味しているようだ。すでに座っている学生の顔をさりげなく見て、隣りに座るかどうかを判断している。それは、初めての友達になるかもしれない未知の友人を、値踏みしているようにもと れる。
  通路を注意深く見渡すと、五列ほど先に座席がぽっかりと空いている。摩耶は学生たちの列をすり抜け、リュックを降ろすと、素早く体を木のベンチへと滑りこませた。
  胸の動悸がまだ早い。目を閉じると、突然、空腹感が襲ってきた。朝食を抜いたせいだ。
  夕べはなかなか寝付けなかった。何度も目覚し時計の文字盤を見ては、ため息をついた。目を閉じると、生まれた町にいる祖母の姿がぼんやりと浮かび上がった。
「死に金は、使うたらあかんで、摩耶」
  涙でいっぱいになった祖母の目を思い出すと、胸が苦しくなった。今の怯えている私を見たら、祖母はどう思うだろうか。考えると余計に頭が冴えて眠れなかった。
  故郷の馴染みの道を、目を閉じて頭の中で巡り歩いた。苦しかった心が、ふやけていく寒天のように柔らかくなっていく。「私のトランキライザーやねんな」そう呟くと、眠りの中に落ちていったことを覚えている。
  突然、ハウリングする強烈な音で、摩耶は瞑想から現実に引きずり戻された。
  教壇の上では、でっぷり太った背広のおじさんが、調子の悪いマイクと格闘している。アンプの音量が大きいのだろうか、ハウリングは教室の空間を引き裂くように学生の間を突き抜ける。脳みそを停止させる音だ。
  おじさんはやっと原因が分かったのか、マイクを教卓に置き、アンプの音量を下げた。そのたびに、ゴトゴトという音が耳障りだ。
「チェック、チェック、チェック。聞こえていたら、挙手願います。ハイ、大丈夫そうですね。では、 文学部のオリエンテーションを始めます」
  慌てた学生たちが、バタバタと目の前で座席に就いていく。
  おじさんが話を始めた。自己紹介をしている。学生部長だって、偉い人なんだろうか、そんな疑問がふっと摩耶の頭をよぎった。


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