海瑠 (集束5)

「隣り、空いてます?」
「ヒエッ!!」
  驚いた摩耶の口からは、まともな言葉が出てこなかった。右側を見上げると、一人の青年が立っている。
「詰めてもらえますか」
「ど、どうぞ」
  摩耶はリュックを掴んで、がさごそと音を立てながら左にずれていく。先ほどの太ったおじさんの話が聞こえにくいのか、周りの学生が非難するような目で摩耶を一瞥している。
  摩耶の頬が、炎であぶられたように熱くなった。視線が痛い。
  どうして、こんな奴のために、自分があんな目で見られなきゃならないんだろう。
  今まで心の中にあった、怯えて暗い気持ちに火が着いて、一気に怒りに変わるのが分かった。
  どうして自分だけ、こんなに苦しまなくてはならないのかという気持ちだけが、ドロドロと自分の心をどす黒く染めていく。青年に対してこれだけ怒るのは筋違いだともわかってはいる。しかし、このイライラは自分ではどうすることもできない。スーパーボールのように、心の中で押さえ切れない感情が、怒り狂いながら跳ね回っている。
「君も、文学部? 何を専攻するつもりなの?」
  青年は、摩耶の気持ちなどお構いなしに、にこやかに微笑みながら話かけてきた。その明るい笑顔は、余計に摩耶の怒りを煽った。もし、今、許されるのなら、その通った鼻筋にパンチをお見舞いして、鼻の骨を折ってやりたい気分だ。幽かにシャーペンを握り締めた自分の拳が、震えている。
「学生部長の話が、聞こえません。静かにしてください。とっても、迷惑です」
  摩耶は青年を睨み付けながら、くぐもった声で言い放った。青年はそれでもまだ微笑んでいる。ガサゴソとブルゾンのポケットに手を突っ込むと、摩耶の目の前に拳を突き出した。
「一枚どう?」
  摩耶の鼻先で、ビュンと青年の手が止まった。板ガムが握り締められている。ミントの香りが摩耶の鼻を掠めた。
  視界に飛び込んできたガムに、摩耶は雷神になった。
「結構です!!」
  摩耶は自分の心の中で荒れ狂う雷を、どうしても静めることができなかった。体中の血が逆流して、頭の中で飛び跳ねている。眼球が目から飛び出しそうなほどだ。
  シャーペンの先を、じっと見つめる。こめかみがズキズキする。拳ごとノートに叩き付けて、シャーペンも、ノートも、ズタズタに引き裂き、叫び回りたい。
  どうして、どうして、どうして、私だけ。
  力を入れ過ぎたのか、シャーペンの細い芯が、パキリと折れた。
  その軽い音は、押さえられずグルグルと堂々巡りしていた摩耶の怒りを、ハタリとその方向を変えさせた。
  自分自身が惨めに思え始めた。
  小さいことで目くじらを立てている自分が、虫けらよりも存在価値がない生き物のように思えた。
  自分一人っきりになりたい。孤独になりたい。私を放っておいて、お願いだから!!
  消えてしまいたい。
  なぜか目の前が涙で霞んでいる。惨めだ。
  洟をすすり上げた摩耶は、机の上で組んだ両腕に顔を埋めた。目を閉じると、涙が流れ落ちるのがわかる。気付かれないように、そっと瞼を袖に押し当てた。袖を通して二の腕に、生暖かさがじんわりと伝わってくる。それは摩耶の弱さの証だ。
  摩耶は全ての思考を停止させた。悲しみと惨めさを抱きしめたまま、優しい自分の二の腕に、額を押し付けた。
  このまま、流されていこう、このまま。


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