海瑠 (集束3)

  キャンパスの南西の一郭は、そこだけ切り取られたかのように落ち着いた雰囲気が漂う。
  クワッドと呼ばれる小さな四角い芝生の中庭を囲んで、美しい木彫りのレリーフで飾られた礼拝堂や、枝を広げる菩提樹、煉瓦で覆われた建物が建ち並ぶ。道を隔てて向こう側はお掘りになっていて、車の騒がしさもここまでは入りこんではこない。外国のカレッジに迷い込んだような錯覚さえ起こさせる。
  "House of Reeds"、つまり「葦の家」はクワッドに面していて、大学構内で唯一、学生だけで管理している建物だ。
  一階はラウンジになっており、皮張りのゆったりしたソファがいくつかの島を作りながら配置してある。
  ここは学生たちの溜まり場だ。数人の学生が紙コップを片手に雑談している。南に面した窓からは暖かい光が降り注いでいる。今日は授業がまだ始まっていないので、ラウンジはとても静かだ。
  海瑠は軽々と二階への階段を駆け上がった。そのたびに木の階段が面白いように悲鳴を上げる。
  新入生の勧誘が始まったせいか、どの部室からも人の気配や笑い声が漂ってくる。
  部室のドアは開け放してあった。海瑠は右手でドアを軽くノックをすると、真っ直ぐ窓際に置いた自分のイーゼルに向かった。
  部室の奥にあるロッカーで誰かが蹲っている。ノックの音で驚いたのか、慌てて立ち上がりドアの方を向いた。
  松崎 惇一だった。日焼けした顔の表情が、驚いたせいか配置が狂っているように見えた。
「おはようございます」
「おはよう。驚いたぜ、海瑠。ノックなんかしないでいいのにサ」
「驚かせてすみません。でも、私も正直いって驚きましたよ」
「ゴメン、ゴメン」
  赤面しながら惇一は頭を掻いている。
「こんなに早くジュンが部室に顔を出すなんて、珍しいですね」
「もうすぐ引退だろ、荷物を整理しとかなきゃって思ってさ」
「気が早いですね」
「海瑠は部室に何のようなんだ?」
  海瑠は窓際のイーゼルに視線を移した。
「これを今日で仕上げるためです」
「やっぱり、それ、海瑠の絵だったんだ」
  惇一はイーゼルに近づき、載せられた一枚の油絵を凝視した。   一輪の花が大きく描かれている。白い肉厚な花弁の下から、サーモンピンクやナイルブルーが薄っすらと覗いている。それは生生しく、生きてうごめいている。欲望の塊が形を成して目の前におかれているようだ。いつも隠し続けている心の中のエロティックな部分を、これでもかと見る者に突きつけている。
  惇一は自分の髪の毛が逆立つのを感じながら、大きく息を吐き、海瑠の方に目をやった。
「でも、初めてじゃないか、海瑠が部室で絵を描くなんて」
「正確にいえば、完成まで漕ぎ付けたのが、初めてなだけですよ」
  落ち着いた口調の海瑠は、自分の絵から視線を剥がし、惇一の目を真っ直ぐに見据えた。
  惇一は海瑠の視線で展翅されたように動けなくなった。それは、海瑠が絵を描く時にする目だった。鋭くギラギラした目だ。
  惇一の舌が口の中で巻き上がり、カラカラに乾いていく。パサパサした舌は、凄く苦い味がする。あの夜の光景がフラッシュ・バックしていく。
  海瑠、おまえは全てを知っているのか? どうしてそんな目で俺を見る。俺の額には、刻印でもあるのか? どうしてなんだ、海瑠。俺は、おまえを踏みつけた。おまえの絵を陵辱した。拭えない事実だ。おまえは、知っているのか。
「何か付いてますか?」
  海瑠が少し首を傾げ、自分の頬を触っている。美しい、長く伸びた指先が、春の光に艶めかしかった。
「どうして、ここで絵を描く気になったんだ」
「春休みで静かでしたし、第一、提出するのに楽ですから」
「提出って、なに? 上野の展覧会はとっくの昔に提出したって言ってたじゃないか」
「『House of Reeds新入生歓迎展』の提出期限です。明日までに持っていかないと」
「この絵は、そのためだけに描き起こしたってことか」
「そうです」
「どうして、海瑠がそんなことしなきゃならないんだ!!」
  惇一の声は、動揺したせいかビブラートがかっている。海瑠はそんな惇一を無視するかのようにクルリと背を向け、お掘りの満開の桜を目を細めて見つめている。
  惇一は海瑠に拒否されたと、強く感じた。
「学長会で問題になったんです、私の絵を飾るかどうかで。3年前のことです。大学の雰囲気には相応しくないとの結論が出たそうです」
「相応しくないって?」
「誰も、ダイニングに屍の絵を飾らないってことです」
「おまえの絵は、凄いけど、そんなんじゃない」
「学生部長の矢部さんは、随分掛け合ってくれたらしんですが、駄目だったそうです。この話は後から碓氷先生から聞いたんですが……。それでも学長会は、何らかの賞を貰った学生の絵を、新入生歓迎会に展示したかったわけです」
「お偉いさんだけの都合じゃないか!」
「そうです。この世のシガラミってやつですね」
  海瑠は少し嘲笑うような表情を見せた。
「矢部さんには随分お世話になってしまったので、断りきれませんでした。そのおかげで、この時期には当たり障りのない絵を描くことになったわけです。でも、私自身楽しんでますから」
「この時期って、毎年やってるのか」
「これで、3枚目です」
「おまえの絵じゃなきゃならないのか? 受賞した絵じゃなきゃ、誰の絵だって同じだろう」
  海瑠は惇一のほうに向き直り、長い足をクロスさせると壁にもたれ掛かった。
「矢部さんから、素人カメラマン対象のヌード撮影会の話を聞きました」
「何だ、それ」
「男性陣の助平根性は、凄まじいという話です。ヌードモデルを見たいがために、撮影会に来る人も少なくないそうです。一眼レフを持っていない、ひどいのになると、駅の売店に売っているフィルムと合体した使い捨てカメラを持ってくる人もいるそうです」
「気持ちは、分かるや」
「私の絵は、勃起すると矢部さんが言ってました。そんな絵を展示したら、ヌード撮影会と同じことが美術部でも起こるとも言われてしまいました。いつもヌードモデルを使ったクロッキーをしていると誤解されたら、困るのは美術部員だって」
「言いがかりだ」
「いいんです。私が承諾したことですから」
  海瑠は言葉の替わりに微笑を惇一に返して、イーゼルの下にあった絵の具箱を引きずり出した。
「私に構わず、自分の事をしてください」
  惇一は、目を閉じた。
  惇一にとっての海瑠は、獲物を狙う若く美しいライオンだった。絵を前にした海瑠の目はギラギラしていて、惇一の心を鷲づかみにしたまま放さなかった。大きなカンバスに絵の具を載せる海瑠を、惇一は見つめ続けてきた。
  自分の心の中にある熱い想いを秘めたまま、ただ海瑠と海瑠の絵を見つめるためだけに部室に通い続けた。
  テンポ良く動く、しなうような白い海瑠の手からは、いつも、惇一が知らなかった魔法が溢れ出していた。計算し尽くされた下塗りや、荒々しく切りつけ、下塗りを生かすペインティングナイフは、油絵を描き慣れていた惇一にとっても新鮮だった。
  俺が海瑠に話し掛ける資格なんかない。俺は、ユダなんだから。
  惇一は、静かに後ろ手でドアを閉め、足先を見つめながら階段を降りていった。
前のお話へ 海瑠トップページへ 次のお話へ
海瑠バックナンバーへ