海瑠 (KNIGHT 10)

  メインディッシュで、浅井はオーソブッコを摩耶たちに勧めた。ここの主人の自慢料理だという。
  浅井の話しでは、作務衣を着た主人という男は変わり者で、料理に国境は無いと自負しているらしい。実際、人一倍の勉強家は、フランス料理にこだわらない自分の料理を提供するために、今まで料理長を勤めていたレストランを辞め、自分の店を持ったというのだ。オーソブッコ自体、イタリア料理らしいのだが、どこかでマスターしてきたらしい。美味いのだが、毎日メニューに載るとは限らない。
「お二人は、ラッキーですよ」
  ウインクする浅井に、恐る恐る摩耶は聞いた。
「オーソブッコって、どんなお料理ですか?」
「牛の脛肉の煮込みです。肉よりも、骨の中の髄が美味いんですよ、まったく」
  摩耶は当惑した表情で浅井を見た。
「ちょっと、ダメっぽいです、私」
  気にしないようにと摩耶に言った浅井は、オーダーを告げた。摩耶が嫌がったからだろうか、オーソブッコはその中には入っていなかった。
「ごめんなさい。浅井さんだけでも、召し上がればよかったのに」
  浅井は笑いながら、首を振った。
「駄目なものは、人が食べるのを見るのも駄目なもんですよ。……女性は、豪快な煮込み料理は、お嫌いのようですね」
「そうですか? 僕の祖母は大好きでした、オックステール」
  浅井は目を見開いて諒を見た。
「健啖家でらっしゃる……でも、あの何でも美味しそうに食べる海瑠でさえ、オーソブッコは駄目だったんですよ」
「どうしてですか? 形ですか?」
  聞き返す諒に、浅井はこう答えた。
「オーソブッコは、煮詰まった絵の味がするそうです」
  にっこりと笑った浅井の前に、キャビアの載ったじゃがいものサラダが出された。塗りの紅い器に、菜箸で器用に浅井は盛り分けていく。
「煮詰まった絵って、何ですか」
  器を軽い礼をして受け取った諒が、聞く。
「海瑠のお父様が、洋画家だということ、ご存知ですか」
  摩耶は直ぐに首を縦に振った。摩耶の隣に座っている諒は、身じろぎすらしていない。
「絵を描くということは、自分を切り取ってをカンバスに載せることだそうです。……残念ながら、私にはどういうことかわかりませんが」
  浅井は軽く両肩を上げて、おどけてみせた。
「でも、煮詰まってくると、描けなくなる。何をしても、描けなくなるそうなんですよ」
  描けなくなる、その言葉は海瑠には似合わないように、摩耶は思った。
「お父様は描けなくなると、牛の脛肉を買ってきて、じっくり時間を掛けてオーソブッコを作るんだそうです。海瑠としては描けない辛さが分かるから、口にできないんでしょうね、お父様のオーソブッコ」
  摩耶はシャキシャキとしたじゃがいもを素早く飲み込むと、浅井に尋ねた。
「海瑠さんも、描けなくなるのですか?」
  浅井はゆっくりと首を横に振った。
「わかりません。でも、……たぶん、そうでしょう」
  摩耶にとっては、以外な言葉だった。
  あの、海瑠さんが、描けなくなるなんて。
  上野の美術館で出会った菜摘さんは、海瑠さんは描けなくなるなんて理解できないだろうと言っていた。私も、海瑠さんが描けなくなるなんて、信じられない。
  私自身、描けなくなることがあるんだろうか。そんなこと、今までに無かった。いつも、描きたいと、手からオーラが出るような気持ちで白い紙に向かってきた。
  描けなくなる日が、来るんだろうか。
「遙さまは、描けなくなったこと、ありますか?」
  浅井の問いかけに、摩耶は半月盆の上に、箸を置いた。
「どうぞ、摩耶って呼んでください」
「じゃ、摩耶さん、どうなんですか?」
「ありません」
「では、舷内さまは、ドラムを叩けなくなったことは」
  諒も、左手に持っていた箸を降ろした。
「よかったら、諒と呼んでください」
「では、諒さん」
「いいえ、諒だけで」
「そうですか、…で、あるんですか? 諒」
「……恥ずかしいですが、あります」
  浅井は以外だという感情を、はっきりと表情に出した。
「貴方のようなサラブレッドでも、ですか?」
  摩耶は諒の横顔を見た。端整な顔からは、いつもとは違った研ぎ澄まされたような緊張感があった。
  摩耶は半月盆の箸置きに視線を止め、焦点を合わさずにぼんやりと考えながら見つめた。
  ジャムセッション、浅井の言葉が浮上する。
  浅井さんは諒君を知っているみたい。諒君は、どこでドラムを叩いているのだろう。もしかして、すごく有名なドラマーなのかもしれない。聞かなきゃ、聞かなきゃわからない。
  摩耶は浅井に視線を上げた。言葉を出すために息を胸の下にため込もうとした時だった。
「海瑠さんは、どうして“STILETTO”で働くようになったんですか?」
  諒が話題のスイッチを切り替えた。摩耶の左隣で、諒は微笑んでいた。しかし、その目からは、焦りが感じられた。
  諒君は、自分のことを話題にしたくないみたい。
  浅井はちらりと摩耶の顔を見たが、今度はまったく表情を変えずに話し始めた。
「お二人の通ってらっしゃる大学には、交換留学生がたくさん来ているでしょう。そんな留学生がバイトし始めたんですよ、“STILETTO”で。でも、帰りがあんまり遅くなるから、ホームステイ先の方が辞めるように諭したらしいんです」
  浅井は少なくなった諒のグラスにハウスワインを注ぎながら続けた。
「武士道に劣る行為をしたと、留学生が後釜に連れてきたのが、海瑠、だったんです。あの店は男性しか雇わない方針だったのですがね、私としたことが、……綺麗な男の子もいるものだと思って、面接したんですよ」
  浅井は懐かしむようにその光景を思い出しているのか、少し視線を下げ、クスリと笑った。今までに見た笑顔の中で、一番はにかんで、少年のようだと摩耶は感じた。
「バイトの理由は、アトリエ代を稼ぐことだと聞いて、心の奥に何か触れるものがあったので、直ぐにOKを出したんですがね、ユニフォームが合わないと言って来たときに、初めて海瑠が女性だと気付いたんですよ。何年も、水商売で女性を見てきたのにですよ」
  浅井はゆっくりと摩耶と諒に向けて顔を上げた。
「女性でも、男性でも、どうでもよかったのかもしれませんね。何かに、惹かれてしまったんですから」
「何に、ですか?」
  聞いた諒の目をじっと見つめながら、浅井はポツリと答えた。
「惚れたんです、絵に」
  摩耶は咄嗟に、浅井が嘘を付いていると感じた。
  浅井は、海瑠自身に惚れているのではないだろうか。だからこそ、何もいらないと言った海瑠から、一つだけ望みを聞きたがったのではないだろうか。
  海瑠の話しをする時の浅井は、幸せそうに見える。
「海瑠の絵、ご覧になったこと、ありますか?」
「ええ、この前上野で」
  口を開いた摩耶の目を、浅井は夢見るよに、見つめた。
「ぜひ、今度、『業火』を見てください」
「『業火』、ですか?」
「ええ、素晴らしい絵ですよ……欲しいと申し出ても、譲ってはもらえないのですがね。どこにあるんでしょうか……」
  浅井の少し残念そうな瞳に、摩耶はもう一度、問い掛けた。
「なぜ?」
「Curios Girl」
  浅井の上目づかいに軽く睨んだおどけた表情に、摩耶は赤くなった。今日の摩耶は、幼稚園の子供が母親を困らせるように、理由ばかり聞いている。
  それでも、なぜか、を、確かめてみたかった。
  浅井は上体を起こし、グラスのワインを口に含んだ。そして、淡いワインの香りとともに、消え入りそうに呟いた。
「……約束、……だそうです」
  次の言葉はあったのだろうか、それを確かめることなく、目の前に織部焼きの皿が置かれていく。




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