海瑠 (三度豆 7)

  鏡に写った菜摘は、俯いたまま、ピンクの大理石のボールに流れ込んでいく水の流れを見つめていた。
  伶華が近付いても、目すら合わせようとしない。
  伶華は金色に光るバーを下げ、水を止めた。
  赤茶色の髪が、菜摘の表情を全て覆い隠している。
「天知、今年の誕生日も、帰って来なかったわ」
  菜摘は自分の世界に浸っているのか、そのままの姿勢で、ピクリとも動かない。
「子供は、いつか旅立っていくわ、天知みたいに。海瑠もいつかきっと……」
  菜摘の薄っぺらな背中が、心なしか揺れているように見えた。
  伶華の言葉に感じるところがあったのだろうか。それとも、後悔して、ずっと泣いていたのかもしれない。胸の内を少し熱くしながら、伶華は続けた。
「もう一度、思い出して欲しいの。瞬さんと私を選び取ってくたことを。これからは、三人で、……」
  死んだ猫ような艶のない髪の分かれ目から、菜摘の横顔が覗いた。
  伶華は瞳を見開いたまま、一瞬、息をすることも出来なくなった。
  菜摘は笑っていたのだ。
  上半身をよじらせ、鳩のようにククククと声を発てて。
  伶華は両手を力いっぱい握り締めた。自分の短く切り揃えた爪が、手のひらにギシギシと当たっているのが、驚くほど鋭敏に感じられる。怒りを押さえ、菜摘が笑い終わるのを待つため、伶華は一層、握り拳に力を入れた。
  手のひらが冷たくなっていく。
  鳩のような笑い声が、耳障りだ。一体、いつになったら、この声は止むのだろうか。
  菜摘の上半身が、不気味に揺れている。
  伶華の背中に悪寒が走った。
  菜摘は、まだ、笑い続けている。
  精神の糸が、ぷっつりと切れてしまったのだろうか。
  笑い続ける菜摘に、伶華は声を懸けることすら出来ない。触れてはならないものに触れてしまったのか。伶華の動悸は乱れ、やっと喘ぐように息をついた。
  菜摘は、やはり、笑っている。鳩のようにククククと。
  伶華は耐え切れなくなった。
「菜摘さん!!」
  ふっつりと、菜摘の笑い声が途絶えた。
  それに換わってやってきたのは、虫酸が走るほどの静寂だった。
  伶華は大きな金切り声を上げたいのを、鏡の中の自分を正視することで、やっと堪えていた。
  菜摘は洗面台に両手を預けると、呆けたような表情をして、右に首を傾けた。
「天知はね」
  伶華にはその一言が何を意味するのか、判らなかった。
「でも、海瑠は違うわ。あの人はね、私が必要なのよ。私から離れるわけがないわ」
  菜摘は鏡を見て、乱れた髪を、右手で撫で付けた。
「コーヒーが冷めるわね」
  その呟きと同時に、菜摘は、伶華を全く無視して、パウダールームから出ていった。
  残された伶華は、糸の切れたマリオネットのように、その場に崩れ落ちた。



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