海瑠 (三度豆 6)

  伶華のこめかみは、憤りのせいかズキズキしている。
  海瑠は伶華にとっては、一滴の血も繋がっていない娘だ。しかし、天知と海瑠の父親は、紛れも無く瞬だ。海瑠は自分の息子の天知と同じ年に生まれた。伶華は、まるで双子が授かったような気持ちで二人を育ててきのだ。
  伶華の怒りは、瞬と菜摘に対してのものだった。
  自分の子供が選ぼうとした道を潰そうとする瞬を、菜摘を、伶華は許せなかった。
  伶華の母は、伶華の選んだ道を、そして伶華自身を、いつも認めてくれた。音大に行きたいと言った時も、瞬や菜摘と一緒に暮らしたいと言った時も。
  親はそうあるべきなのだと、思っていた。
  なのに、
  それなのに、
  海瑠は芸術関係の大学に進学して、油絵を専攻するつもりだった。高校三年生になってからは、学科試験の準備とともに、所定時間内でデッサンを仕上げる練習もしていた。
  海瑠を出産してからはまったく絵筆を握らなくなってしまっていた菜摘が、恐ろしいほど海瑠の受験にのめり込んでいた。過去の入試でのデッサンの出題の傾向を調べたり、果ては、芸大の教授の所に絵を習わせに行かせたいとまで言いだしていた。
  それまで瞬は、子供の教育に関して一切口出ししなかった。全て、伶華と菜摘に任せきりだった。
  そんな瞬が、突然、海瑠の進学に反対した。
  あの日、瞬が突飛なことを言い出したあの日を思い出して、伶華の頭にはまた血が上り、目の前の光景が一瞬白く霞む。
  あれは、銀杏が美しい金色の葉を散らし始めた午後のことだった。家族全員で紅茶を飲もうとリビングに集まってきたときだった。
  普通ではない家族が、なんとか現実を認めて、五人で仲良くやっていけそうな雰囲気になってきた矢先のことだった。思春期の天知が引き起こしたゴタゴタも、まるで潮が引くように収まり始めて、家族に安らぎが訪れようとしていたのに。
「海瑠、大学で、お前の絵を教えてくれるわけがないだろう」
  降って湧いたような、あの一言。
  瞬の冷たい目。
  そして、瞬は重々しく宣告した。
「時間の無駄だ。止めろ」
  瞬のその一言に食ってかかったのは、天知だった。
「海瑠は絵を描くために大学へ行くんだ。瞬さんだって、菜摘さんだって、芸大へ行ってたんだろ、何で海瑠だけ、駄目なんだよ」
  天知は真っ赤な顔をして、瞬のセーターの胸元を掴んで揺さぶった。
「今更、変な事、言い出すなよな!!」
  気まずい空気が、アンバランスな家族の間を流れていった。
  瞬と天知の間に入ったのは、以外にも海瑠自身だった。
「瞬さん、二人で話し合いましょう。いいでしょう、天知」
  その押さえた声から、伶華はとても嫌な予感がした。
  あの日、瞬と海瑠は二人だけで、瞬のアトリエへ消えていった。
  三十分ほどしてアトリエから出てきた海瑠は、大学に進学することを瞬が許してくれたと菜摘と伶華、そして天知に告げた。菜摘は勝ち誇ったような表情を見せた。が、海瑠の次の言葉に蒼白になった。
「ただし、絵を学ぶための大学には行きません」
  瞬は別の約束も取り付けていた。海瑠が絵を描きたければ、自分で画材代を調達すること。そして、描いた絵は、一切、捨てない、売らないこと。
  海瑠は陽の光の中で絵を描くのが好きだ。そんな海瑠が絵を描き続けるためには、夜にアルバイトするしか取る方法はない。
  伶華は苛立ちながら、海瑠を見つめ続けてきた。
  口出しはできなかった。
  海瑠の凛とした態度は、誰にも嘴を挟ませる隙間も与えてはいなかった。自分にジレンマを感じながらも、伶華はただ見つめ続けることしかできなかった。
  そのジレンマは、瞬や菜摘の顔を見る度に、怒りへと置き換わっていく。
  芸大進学に反対した瞬は、いったい何を考えているのだろうか。
  幾度となく伶華が瞬に問いただしてみても、瞬は薄ら笑いを口元に浮かべるだけで、何も答えようとはしなかった。
  そして菜摘の態度は、前にもましてかたくなになり、自分の殻に引き篭もるようになってしまっている。
  親だからといって、海瑠の選んだ道を潰すなんて。そんなことが、許されて良いはずがない。
  伶華は爆発しそうな自分を、懸命に押え込んでいた。
  このまま感情に任せて菜摘さんをなじるようなことにでもなれば、それこそ菜摘さんのしている事と同じになってしまう。押さえなければ。それに、一番苦しむのは、海瑠なんだから。
  足を踏み入れたリビングには、菜摘の姿はなく、瞬がただ一人、カフェオレ・ボウルを両手で包み込むようにしてソファに座っていた。
  伶華が耳をそばだてると、水の流れる音がする。菜摘はきっと二階にいるに違いない。
  伶華は一歩一歩、ゆっくりと階段を踏みしめて上っていく。
「私が取り乱せば、海瑠をもっと悲しませる事になるのよ」
  伶華は自分に言い聞かせると、パウダールームのドアをゆっくりと開いた。




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