教科書に載ったら殺される




彼女の読書量は、凄いようだ。

こちらでワインを販売している会社に勤めている日本人の彼女は、紀伊国屋に立ち寄ると100ドルは本に費やしてしまうらしい。
ふとした話から、どんな本を読んでいるかという話題になった。
「江國香織とかすきなんです。ほら、あの男の子が出てきた、なんだっけ。」
「『こうばしい日々』ね。」
「ええ、そうそう。一番始めに読んだのが、『きらきらひかる』で、とっても良くって、もうそうなったらその人の作品全部読みたくなって、買い漁っちゃうんです。この前も江國香織の詩集がレジにおいてあって、買おうかと思ったんですけど、ぐっと、堪えたんです。」

なんだか、溌剌としたその話しぶりに、私の頬は緩む。
気に入った作家の作品を全部読んでしまいたいという欲求は私にもある。同じように一人の作家にのめり込んだ経験は山ほどある。

本はいい。

「ね、雅世さんはどんな本を読むんです?」
笑っている私に、今度は質問が帰ってきた。
「そうね、向田邦子とか司馬遼太郎が多いかな。あとは初期の吉本ばななとか、山田詠美とか。」
「ふーん。」
さっきのような手応えは彼女から帰ってこない。
「読んだことない?」
「えっと、教科書に出てきて読んだことはあるんですけど、教科書に載っているとなんだかそれだけで、もう他の読むのは嫌!って感じになって。それに、全部、死んじゃった人の作品ばっかりだし。」

ここで、私が上げた作家の方々に悪いのだか、ぷっ!と吹き出してしまった。

確かに、私の愛している作品を生み出している作家の中には鬼籍に入っておられる方もいらっしゃる。しかし、作品がよければ、その作品は読みつづけられて然りとも思う。紫式部も、清少納言も、シェークスピアも、この世にはいないがその作品は読み継がれている。

しかし、彼女の言うこともよくわかるのだ。

私がまだ学生だったころの現代国語の教科書には、掲載された作品の最後にその作者の顔写真と簡単なプロフィールが載っていた。この顔写真に落書きして先生に怒られたクラスメイトもいた。
私もほとんどそんな作家はもう過去の人で、今は生きていない人たちばかりだと思いこんでいた。
彼女と同じ発想だ。
教科書なんかに載っているんだから、古くって面白くないと、見向きもしなかった作品もある。
教科書に載るということだけで、その作品や作家への感心は薄くなるように思うのだ。
それは漢字のテストに使われる教材であり、そこから何かを感じとって感動する作品じゃなくなっている。

教科書の作品を色褪せたものにしている理由の一つには、出会いの喜びがないということだろう。

本には出会いの喜びがある。
図書館の、あるいは本屋の本の山の中から、自分がたった一冊を選ぶ。
これを出会いと言わなくて、なんと言おう。
その出会った一冊を読みきったとき、「ああ、読んで、よかった、手にしてよかった」と思える感動がないと、その作家にのめり込むことはない。そのチャンスを自分が数万、数億冊の中から自分で選んで読んだとしたら、また、感激もあるのではないか。
分厚い、忘れるとしかられる、教科書という中からこちらの意思とは関係なしに「読まされる」ものとは、受け取り手の最初の姿勢から違うのは確かだ。

しかし、私はこんな友人にも会った。
まだ星新一氏が存命中に、教科書にショートショートが一遍載ったのだ。
それまで、読書など嫌いだと言っていた友人が星氏の作品にのめりこみ、その後SFや他のジャンルの本も愛するようになっていった。
教科書に載せられた短編も、こうやって人の考えを変えさせる大きな力を持っていることも事実だ。自分から仕掛ける出会いでなく、向こうからやってきた出会いで変わる機会を持てることも、若い人にとってはたくさんあればあるだけ、いいのではないだろうか。

さて、今を生きる作家の今の作品を読むことは、「今」を共有することだと思う。
特にその作品の舞台が現代なら、自分と同じ年齢なら、よけいにその感情や行動を理解し、共有することができる。
だからこそ、「今」の作品は面白い。
しかし、「今」の作品を教科書に載せてしまったら、若い人の「自分で本を探す」わくわくを奪ってしまう。
だから、国語の教科書を「今」の作品だけで埋めることは、して欲しくない。
彼等にだって、そんな素敵な作品と出会い、自分でその作品が魅力的であるかを嗅ぎ取る嗅覚を養っておいて欲しい。
何もかもお世話してしまっては、その面白味がなくなってしまう。
ほんの少し、料理の合間の箸休めのように、ちょっぴりと用意していただきたい。

でも、一つ言えるのは、長編の一部分だけを教科書に載せるのはよくないと感じる。
一部だけ読んだって、感動もなにもあったものではない。
あれは、尻切れとんぼの何ものでもない。
よけいにその作家や作品から若い人を遠ざけることになりはしないか。
私はそうだった。魯迅の『阿Q正伝』は、教科書に載っていたくだりしか読んでいない。
作品とは全部読みきってこそ、初めて感動が読み手の中でまとまるものだ。
だからこそ、質の良いエッセイや、短編小説を入れて、その作品全部を味会わせて欲しいのだ。

教科書に、ハンカチを持ってないと読めないような短編を載せたって、いいじゃないか。
教科書にちょっと毒を含んだ背筋が凍るような短編を載せたって、いいじゃないか。
それで若い人が作品を好きになって、色んな作家の作品に会いに、本屋や図書館に出かけていくようになれば、それでいいじゃないか。そう思うのだ。

そして、もう一つ大きく感じるのは、ただ読んでその文章を解釈する現代国語と、自分の意見を論理的に書くという「書き方」、そして自分の意見をきちんと述べる「話し方」とに、国語を分けて欲しいと感じるのだ。

「書き方」は、読書感想文とかを書くのではなく、自分の意見を自分の言葉で表現するという授業。そして、何かを創作するという授業。
今は小学生で作文を書く以外に、ほとんど自分の意見を日本語を使って表現するという授業がない。そのまま大学に上がって論文を書いたとしても、どれだけのものが書けるか首をひねってしまう。
今、日本の教育は世界に目を向けて英語の勉強に力を注ぐように変わってきているらしい。小学校で、もうすでに英語の授業が始まっていると聞いた。
が、自分の母国語できっちりと意見を考え、言葉としてまとめていく能力がなければ、英単語を詰め込んでも、何も外に出てこないのではないか。
人に対して自分の意見をきっちりと日本語で表現さえできれば、優秀な通訳がいればよい。その根本の表現ができないままでは、いくら優秀な通訳がついても、伝えるものがないのと同じだ。

「話し方」は、プレゼンテーション能力と人と話し合う能力を高めるための授業だ。
日本人は、このプレゼンテーション能力の低いまま、企業に就職するケースが多いと私は感じている。実際、同期入社で全くプレゼンテーションのできない人がいた。机上の勉強では必要のない能力だったのだ。しかし、これらの能力は社会人になると身につけていることが要求される。
人の目を見て、自分のペースに引き込みながら、自分の作った資料で自分の意見を表現する。
複数人で討議をしながら、一つの結論までを導き出す。 あるいは、二つのグループに分かれ、自分たちのグループが有利になるように、討議の練習をする。
社会に出てから磨けばいいことなのかもしれない。日本の会社で行なわれる会議なんて、それまでの水面下でのネゴシエーションでの結果を再確認するだけの場であるというのもわかっている。
しかし、そうでない日が必ず日本にも来る。そのネゴシエーションが酒場ではなく本当に会議室で行なわれる日は、そう遠くないはずだ。

もし、今、日本の外に目を向けようとしているのなら、英語の能力を高める前に、日本語の能力を高める教育を、若い人たちにすべき時期なのだと思う。
教科書も、そして、その方法も。





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余談

一時帰国のとき、小学校5年生の甥がやっている英語のドリルを見せてもらった。
私が中学生でやっていたのと同じことをやっている。
ここには、theか、aか、どちらが入りますかとか、be動詞が入るのかとか、そういった質問だった。
このままじゃ、日本人はやっぱり英語を話せないままだなと、ドリルの前で頭を抱えている甥を見ながら、しみじみと感じた。



2000/05/12



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