キッチンを歩く素足に何かがあたる。

 そっとつま先立ち、振り返るようにして足の裏を陽の光にあてて目をこらす。

 小さな三日月のような白い爪が、手入れを怠ってささくれ立つ私のかかとに引っ掛かっている。この大きさなら、きっと息子の爪の切り屑なのだろう。そういえば、さっき南に面した硝子窓の日溜まりの中で、主人が床に広告を広げ胡座をかいた上に子供たちを座らせて爪を切っていた。パチン、パチンと弾けるような音を、食器を片づけながら聞いたっけ。

 子供の爪は、すぐ伸びる。大人なら十日ぐらい放っておいても気にならない。でも子供は一週間もすれば魔女の爪のように伸びてしまう。そして、あの音。若竹が撓いながら折り取られるような音。爪の厚みはないが、ねっとりとした粘着質の爪は、爪切りの刃を弾き飛ばしそうなほどの勢いを持つ。その感触に、私は子供たちの勢いよく伸びている若さを感じる。

 でも、生まれたばかりの赤ん坊の頃はこうではなかった。

 水をたっぷりと含んだような肌、そして、爪までも瑞水しくて、でも頼りなげだった。先の丸い鋏で、手を切らないようにと恐る恐る切った爪は、まるで紙のようだった。パチリという音もせず、スルリと、本当に薄い紙を切ったような感触だった。

 それがたった三年ほどで、こうもしっかりするとは。……自分が覗き込む鏡の目元に、カラスのライダーキックがほんのりと浮かんでいるのも、無理はない。

 誰かの爪を切る。爪を切る感触で、その人の歳を嫌がおうにも見せ付けられる。

 私は、母方の祖母と、私が結婚して家を出るまで、ずっと一緒に暮らしてきた。小さい頃、時々私は祖母に手の爪を切って貰っていた。やすりの付いた金色に光る爪切りだった。

 祖母は、私を可愛がってくれた。風呂に入るのも一緒だった。まだあの頃は桧の浴槽で、土間の釜で火を燃して風呂を沸かしていた。風呂の中には銅で囲った釜と繋がっている部分が剥き出しになっていた。祖母が私と一緒に風呂に入っていたのは、私に火傷でもさせては大変だという配慮からだったのだろう。祖母は、「浦島太郎」や「牛若丸」の歌を私に教えてくれた。熱い湯が好きな祖母は、私が茹で上がっても、私が百まで数え切るまでは、決して風呂から上がらせてはくれなかった。

 浴槽が、桧からホウロウ、そしてステンレスに変わっても、私と祖母は一緒に風呂に入った。でも、立場が微妙に変わってきていた。今度は、祖母がよろけて風呂場で怪我をしないように、私が付き添う役になった。

 祖母のよく太った体が、いつの間にか痩せ始め、骨と皮のようになっていた。

 今思えば、背中の一つでも流してあげればよかったと思う。しかし、自分のできることは自分でしたほうがよいと考えて、私は一切祖母の着替えなどの手伝いをしなかった。若さの奢りと取られただろうか。でも、祖母の出来ることを横から手伝うのは、余計なお節介だと考えていた。

 ある日、祖母は爪を切って欲しいと私に言った。

 今まで祖母は自分の爪は自分で切っていた。銀色に光るヘンケルの薄型の爪切りを器用に使って。私は、祖母の瞳を見ながら、「自分で切ってごらん」と応えた。次の瞬間、温和な祖母の瞳に、怒りの色が見えた。

「自分で出来るんやったら、頼まへんわ!!」

 祖母は爪切りで爪を挟むと、その刃を捻じった。爪は、音も無く、無残なギザギザを残して祖母の指先からもぎ取られた。

 私は、慌てて祖母の手から爪切りを取り上げると、自分の手のひらに祖母の手を載せ、爪を切った。その爪は、音を発てる元気もなく、まるでゴムを切っているような感触を私に残した。
 不意に涙が溢れた。

 祖母の頼みを素直に聞き入れなかった自分を責めた。祖母は私が思っていたとおり、自分の出来ることは自分で何もかもやってきていたのだ。そして、どうしても自分では出来ないと思ったことだけを、私に代わりにやってくれるように頼んだというのに。

 祖母の気持ちを考えると、胸が苦しく捻じ切れそうになる。
 祖母は、どんな思いで、自分が爪を切れなくなったことを自覚したのだろう。そして、どんな気持ちで私に頼んだのだろう。自分で出来ることは人に頼らずに何でもしてきた祖母。それは、自分ではどうにもできない老いを、一つずつ認めていくことだったのかもしれない。

 いったい、どんな気持ちで……。

 胸の潰れるような思いで、私は祖母の爪を切り揃え、やすりをかけた。

 目を上げたそこには、私のことを気遣ってくれたのか、幼女のようにあどけなく微笑んでいる祖母がいた。

 夜に爪を切ってはいけないと言われてきた。親の死に目に会えないという。

 私は祖母の爪は昼間切っていたが、自分の爪は夜、電灯の下で切っていた。そのせいか、祖母の死に目にも会えず、葬式にも出れなかった。だから、まだ祖母は生きているような気がする。この世のどこかで、自分の出来ることを自分でちゃんとして、生きているような気がする。

 ふと自分の指を見つめる。

 薬指の曲がり具合が、祖母そっくりだ。

 私も、祖母のように老いるのだろうか。祖母のように凛々しく老いることができるのだろうか。




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