「槿」(むくげ)



 逃げ水はアスファルトに、正体も無くしがみついている。
 蝉時雨は思考を止めさせ、背中を流れる汗さえも、もう他人の体のようにしか感じられない。
 不思議と暑さは感じなかった。ただそこに佇んで見つめていられれば、それでよかった。
 風は花を揺らす。
 すりガラスでできたような、まだ開ききらぬ花弁は、美和の神経を吸い取ったかのようにそこに咲いていた。
 花の名は知らなかった。それほど高くないひょろりとした木に咲いている。
 しかし、その花に惹きつけられた。
 真っ白なその花の襞に、薄いグレイの影がそえられている。
 手折りたいと思っても、美和が手を伸ばしても届く位置ではなかった。
「――とってきたろか。」
 いつもの声だ。
 美和は身動がない。
「とってきたら、僕が欲しいものくれるか。」
 困惑した美和の視線の先には、先ほどの花が揺れていた。
「僕の欲しいもの、くれるね。」
 美和は白い花を手にした。
 ガラスのように感じた花びらは柔らかく、奥にはひっそりと象牙色した雌しべが覗いている。
「目を閉じて。美和、命令だよ。」
 美和は甘い戦慄を感じ、恐れながらも喜びそして痺れながら、目を閉じた。


 やっと辻褄があったのは、ぼやけた視界からではなく、電話のベルの音からだった。
 あれは美和のよく見る夢だった。白い花の夢。
 娘の吹奏楽の練習はまだ終わる時間ではない。ベランダからのきつい陽射しでそのことはすぐにわかった。娘の迎えを要求する電話でないとしたら、一体誰からなのだろう。
 重い体をソファから持ち上げると、大儀そうにベージュの受話器を持ち上げた。
「はい、柳田でございますが。」
「もしもし、ね、美和?」
 中学の同級生の麻里だ。勢いの良い話し方は、いつもの同じ調子だ。面倒見の良い麻里は、偶然大学も同じになった美和に、何かと電話をかけてよこす。美和の夫が転勤になり地方都市に出向いたときも、麻里は短い手紙や葉書を送ってきてくれていた。友達の少ない美和にとっては煩わしくも思う反面、ありがたい友達なのだった。
「ね、ね、ね、今度の同窓会どうかなあ、連絡いってる?」
 頭の隅で一週間ほど前に届いた往復はがきの記憶が浮かび上がる。
「うん、もらってる。」
「ねえ、美和。今年、私、幹事なのよ。でさ、美和なんか、いつもご主人の転勤で同窓会なんて出てないじゃない? ね、今年は東京に戻って来たんだし。ね、出てよ、ね、お願い。」
 麻里は有無を言わさずに、美和の首を縦に振らせるつもりらしい。
「――ええ、まあ。」
 真夏の同窓会。みんなが実家に帰ってくる時期にすることにしたと、麻里の弾んだ声は続けている。気の乗らなさそうな返事を、麻里は察したのだろうか。麻里は、変化球を投げてよこした。
「だって、美和さんが行くなら行きますって人がいるんだもん。」
「……そんなこと」
 ないわと続けたはずの言葉を、飲み込んだ。
 二十数年も会っていない、中学の同級生たち。その中でそう言うのなら、一人しかいないと美和は考える。
 唇の端まで出かかった名前を敢えて口には出さない。
「まさか。私なんて、全然、目立たない生徒だったもの。嘘でしょ?」
「うううん。嘘なんか、つくわけないでしょう。星史郎さまよ、宗君よ、宗君。ね、美和、覚えてる? ほら、番長のパンチ、片手で受けた。でさ、偶然さ、仕事で……」
 美和は、星史郎という名前を聞いたとたん、へなへなとカーペットに座り込んだ。
 麻里の講釈が、甲高い声とともに電話の奥でぐるぐる廻っている。



次へ






Copyright (c) 1996 by Masayo Fukui