海瑠 (嵐 3)

  大事な人が死ぬ、その辛さは海瑠には痛いほどよくわかる。それに、摩耶は小さいときからずっと祖母と一緒に暮らしてきたと海瑠に話していた。貧血で摩耶を送っていったときも、摩耶の語調で、どれだけ大切に思っている人なのか、海瑠には伝わってきていた。 それならば、海瑠が感じた踏青を失った痛みよりも、摩耶はもっと引き裂かれるような痛みを感じているのではないだろうか。
  それだけではない。家族や親族がみんな知っている祖母の死を隠されてきた摩耶の気持ちを考えると、海瑠には小さな怒りが込み上げてくる。ただ、大切な人を失った悲しみだけではく、自分一人だけ取り残されてしまったような空虚を感じているのではないだろうか。そのやり場の無い気持ちを考えると、海瑠は一刻も早く、摩耶のもとへ行きたかった。
  信号はまだ赤だ。
  ワイパーが全力で動いているのに、視界が全くきかない。酷い嵐だ。
  ウインカーのカチカチという音が、海瑠の焦るような気持ちに油を注ぐ。
  左手でステアリングを握り締める。黄色いバックに浮き上がる黒い暴れ馬が目に入る。右手をそっとシルバーのボールのようなシフトレバーにのせる。
  これは、瞬の車だ。赤いツーシーターのスポーツ・カーは、瞬にとっての宝物だ。それは海瑠にもわかっていた。だから、海瑠は一度もこの車を運転したことはなかった。いつもなら、海瑠は右ハンドルのガーネット色のステーション・ワゴンを運転する。今日もそのヴァンを借りようと、いつものように瞬にこう切り出した。
「瞬さん、すみませんが、車を貸していただけませんか」
  北沢とこれからチェスをするつもりなのだろうか、向き合って駒を並べていた瞬が目を上げた。
  いつもなら、「ああ」と一言投げやりに言う瞬が、今日に限って、海瑠を睨み付けながらこう言った。
「みんなで出掛けるかもしれないから、ワゴンは駄目だ」
  北沢が驚いたようにチェス盤から目を上げて、瞬を見る。瞬は海瑠も北沢も無視するように、また下を向き、チェスの駒を並べ始めた。
  海瑠は瞬の反応に苦笑した。
「じゃあ、スポーツカーを貸して頂きます。でも、ぶつけても請求書を回さないでくださいね。払えませんから」
  海瑠は瞬の返事を待たずに振り返ると、瞬たちのいるリビングを突っ切り、キッチンのキー・ボックスからおもちゃのように小さな車の鍵を取り出した。
  そう、海瑠は何が何でも摩耶のところへ行きたかった。
  海瑠は呟く。
「瞬さん、貴方は私の前に立ちはだかろうとするけれど、その度に、私は自分が本当にどう思っているのか、はっきりわかるんですよ」
  信号が変わる。
  アクセルを踏み込み、クラッチを切る。
  エンジンが唸ると、速いレスポンスでタイヤが軋むように走り出す。体がシートにのめり込む。それでもアクセルを踏み込み、ロー、そしてセカンドから一気にトップへギアを変える。





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