海瑠 (風穴 4)

  摩耶は壁際の椅子を引き摺り、部室のドアが見える場所に置くと、浅く腰掛けた。部室に他の部員がいないことも、紫穂とあれ以上会話しなくてよかったことにも、内心ほっとしていた。普通の顔をして、仕上っていく人の絵を見るほど、辛いことはない。それは、ただ摩耶の焦る気持ちを煽るだけだった。
  ドアをじっと見つめる。
  なぜ、私はここに来てしまったんだろう。
  何を期待していたんだろう。
  何をしに来たんだろう。
  ドアは答えることなく、じっと摩耶の視界の中に暗く雨の気配を含んで滲んだように存在している。 摩耶はスケッチブックを開いた。
  桜、菫、山吹、藤の花、紫陽花、摩耶が美しいと思った花のスケッチが続く。迷いの無い黒いコンテの線。しかし、紫陽花からは、スケッチブックは全くの空白だった。紫陽花から数ページ、スケッチブックの螺旋の部分に、引き千切った白い画用紙の切れ端が残っている。
  思うように線が決まらなくなり始めたのは、何時の頃からだろうか。摩耶はコンテを4Bの鉛筆に変えた。線を引く。気に入らずにまた線を付け足す。そして、また一本もう一本と線を重ねて、白い画用紙は黒く埋まっていく。何を描いているのかはっきりと焦点の合っていないスケッチを、摩耶は消しゴムで削り取ってはまた線を引き、決まらない線を何本も載せていった。
何をしても思うように描けなかった真っ黒な画用紙を、摩耶はスケッチブックから毟り取った。
  そんなことが、数回続いた。こんなことは今までになかった。気持ちを入れ替えてスケッチブックに向かっても、その状態から抜け出す事はなかった。
  もがいても抜け出せない。まるで底無し沼に両足を取られ、虚しく両手を振り回しているような気分だった。
  恐怖を感じた。
  そして、摩耶は、ぴたりと描けなくなってしまった。
  白い紙は恐い。
  何か描かなければとは思うが、その白い紙を埋め尽くせるだけの自信が、今の摩耶にはなかった。
  また、決まらない線を重ねて白い紙を真っ黒にすることが、そうしかできないだろう予感が、とても恐かった。
  摩耶はそっと裏表紙をめくった。
  蒼い海瑠。マリンブルーの色鉛筆で描いた海瑠。そこにはクロッキーの苦手な摩耶が、暗闇の中、手探りでトルソーを触りながら描いたような海瑠がいた。
  でも、瞳を閉じてみても、もう、以前のように鮮明に海瑠の顔を思い出すことができない。
  人間の記憶なんて、なんて曖昧なんだろう。あれだけ、あれだけ、優しくしてもらったのに。もう、顔も思い出せないなんて。
「摩耶、あんたの心の中にはな、風穴が空いてんねん」
  真っ黒な闇の中、神戸に残してきた祖母の言葉が摩耶の中で響いた。
「おじいちゃんと一緒や。柔らかい優しい心持ってるから、同じや。おじいちゃんにも、風穴があいとってんで」
  摩耶の祖父は画家だった。どちらかというと、今でいう商業デザインのようなことをやっていたと聞いている。
  でも、摩耶の知っている「おじいちゃん」は、もう絵を描かなかった。膠原病という病気のため、絵筆を握る右手が効かなくなっていた。時々辛そうな目をしては、庭の桜を眺めていた。
  風穴。
  風が吹き込むと、あのフラッシュバックが始まるときのように、自分が崩壊していくんだろうか。それとも、風が吹き込むと、今の自分のように、絵が描けなくなってしまうのだろうか。
  風穴。私の心の中にも、空いているのだろうか。




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