海瑠 (佐保姫 13)

  二間続きの座敷には、お通夜の祭壇が作られていた。しかし、置かれた花の位置が、左右アンバランスだった。
「こっちから回ってください」
  黒い喪服を着た男の後を追うようにして、海瑠は送り主の名前が付けられた花を縫っていく。
  男は白く冷たく光る布をめくり上げた。その下には、白木の棺があった。
  男が小さな扉を開けた。
  少しやつれた踏青の顔が見えた。目を閉じている。
  ──おじいさま、来たわ、海瑠よ。
  心の中で呟きながら、海瑠は一歩棺に近付いた。
  海瑠は思わず息を呑んだ。踏青の鼻孔に、白い綿が詰められている。その光景は、雷のような衝撃を、海瑠の脳天から突き刺した。

  ──寝ているみたい。でも、違うのね。
  ──もう、頭を撫でてくれないのね。
  ──炎で燃されて、無くなってしまうのね。
  ──そうしてら、二度と会えない。
  ──死ぬって、こういうことなのね。

  海瑠の目から、初めて涙が流れ落ちた。それと同時に、今まで張り詰めていた気持ちがプッツリと切れ、海瑠の口から鳴咽が洩れた。
  心が悲しみの海で溺れていく。自分の心なのに、どうすることもできない。
  とめどもなく流れる涙で踏青の顔が霞んで良く見えない。それでも、瞬の掛けてくれた言葉どおりに、しっかりと別れを告げるべきだとの想いが、海瑠の面を辛うじて上げさせていた。
  唇を強く噛み、鳴咽を押し殺す。
「もう、ええか」
  右肩に置かれた暖かく小さな手に、海瑠はやっと頷いた。
  ──さようなら、おじいさま。

  風呂敷きで包んだ木箱をしっかりと胸に抱きしめ、海瑠はコインローファーに足を滑り込ませた。白い子砂利に、海瑠が立ち上がった翳が青白く落ちる。
  振り向いた海瑠には、逆光で老女の表情はまったくわからなかった。
「さようなら……拓磨くんに、ありがとうって伝えてください」
  もう二度と、おばあさまに会うこともないでしょうね。
  漠然とそう感じながら海瑠は振り向き、ゆっくりと庭の小道をたどり始めた。
  老女は初めて会った孫を見送っているのだろうか、光の筋は太いまま依然として庭にあった。
  玄関の前で交わる小道で、何人かの弔問客とすれ違う。手の中の風呂敷きは化繊なのだろうか、妙にシャギシャギしているのが、悲しかった。
  人目につかないようにと老婆が教えてくれたバス停に抜ける道は、暗くだらだらと下りながら、巻き貝のように回り込んでいた。二十歩ほど歩けば、弔問客の靴音も、朧げに浮かんでいた家紋と提灯も、一切視界から消えた。そこにあるのは、暗い竹薮だけだった。
  道に迫る竹薮を吹き抜ける風が、ざわざわと葉を揺らし、竹と竹を打ち付け恐ろしい音をたてて通り過ぎる。海瑠の口元から洩れる白い息が、風に掠め取られては暗闇へと消えていく。
  「泣く場所なんて、ない」、咄嗟に海瑠は思った。
  父親の死に目にも、死に顔すら見られなかった菜摘の前で、海瑠は泣くわけにはいかないだろう。
  先ほどの悲しみも、切なさも、すべてここに置いていかなくては、そう海瑠は思い、足を止めた。踏青が遺した茶碗を抱きしめる。小さな家族に出来た綻びは、踏青の死でも繕うことは出来なかったのだ。お互いの切なさも、言い分も、それをぶつけて相手を許し合うこともそのきっかけも、菜摘と老女は失ってしまったのだ。
  小さな木箱の存在にふと海瑠は不安になる。菜摘がこの茶碗を見て、どんな反応をするのだろう。海瑠は小さな木箱を強く抱きしめる。
  その小ささは、踏青が訪ねてくれることと引き換えに、今、海瑠の手の中にあるのだとはわかっていても、あまりに小さく頼りなかった。その頼りない存在は、それでもしっかりと、踏青が二度と海瑠の目の前に現れないことを海瑠に教えていた。そして、もう、誰も海瑠に対して踏青がくれたような安らぎの気持ちを与えてはくれないことも。海瑠は目を閉じて踏青の顔を思い出した。皺でくしゃくしゃの笑顔が浮かぶ。
  塞き止めていた感情がまた高ぶりそうで、海瑠はもっと強く木箱を抱きしめた。
「強く、ならなきゃ」
  涙で少し震える声で、海瑠は自分に言い聞かすように呟いた。そして目を開けて前を睨み付けた。少しでも気を緩めると涙が溢れそうになるのを、海瑠は睨み付けることで断ち切ろうとしていた。
  ふと、その竹薮の切れ目から、輝くものが見えた。海瑠は不思議に思いながら輝くものを見つめた。
  それは星だった。
  強い光を放つ星が凍り付いたような空気の中で、晧晧と輝いている。海瑠は星屑を散りばめた濃紺の夜空を仰いだ。菜摘の好みで伸ばしている海瑠の髪が、背中でさやさやと揺れた。
  ──星には色がある!!
  驚きとともに口から白い息が洩れる。
  東京の空しか知らない海瑠にとっては、そのことは驚きだった。
  どれが何という星座なのかまったく知らなかった。でも、青白く煌く星もあれば、紅く輝く星もある。踏青や海瑠自身が生まれる遙か昔、恐竜が歩いていた時に輝いた光が、今こうして地球に届き自分が見ているのかと思うと、人間なんて宇宙の片隅の小さな塵のようにも思える。でも、小さくても現実に存在して、しっかり生きている、悩みながら、苦しみながら懸命に。
  人は死んだら星になるのだろうか、海瑠は自分に問い掛ける。
  ──わからない。
  ──わからない。
  ──でも、もう、会えなくなくことだけは、わかったよ。
  ──そして、今日、初めて人間はいつか死ぬのだということも。おじいさまのように、自分もいつか死ぬのだということも。
  ──人を傷つけるのも、自分が傷つくのも、もう嫌。
  ──おじいさま、自分らしく生きることにします。外見も、喋りかたも、そして自分自身も。
  海瑠は小さい木箱を抱きしめると、何かを切り捨てたようにしっかりと前を向き、靴音を坂道に響かせながら、星とともに歩き始めた。




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