海瑠 (佐保姫 6)

  おばあさまのお手前は、柔かい。
  そう思いながら、ゆったりとした夢乃のしぐさを、海瑠は見つめた。
  おじいさま、おじいさまのいない春が、また一つ、往ってしまいました。
  海瑠は半眼で佐保姫を見つめ続ける。

  海瑠の祖父である柏木 踏青は、春と秋、東京で開かれる物産展や作品展のたびに上京しては、海瑠に会いに来ていた。手土産は、いつでも少し変った画材だった。金粉の入ったパステルや、水彩の色鉛筆など、その頃では手に入りにくいものばかりだった。
  踏青と菜摘は顔を合わせても、後味の悪い感情しか持てなくなってしまっていた。冷え切った親子ほど、手に余るものはない。小学生の海瑠にとっても、胸の潰れるような時間だった。
  海瑠は、いつしか踏青の手を牽いて、家から出るようになっていた。
  その頃の海瑠は、自転車で近所を探検するのが大好きだった。近所といっても、半径三十キロ圏内を、偶然を頼りに走るのだ。駄菓子屋を見つけたり、不気味に残った鎮守様も見つけた。そんな偶然で見つけた公園の一つに、貧血を起こした摩耶を担ぎ込んだ公園も入っていた。
  あの公園の古木の桜は、踏青のお気に入りだった。
  踏青と海瑠は電車を使って、桜を見に行った。雨が降っていても、出掛けていった。
  公園で貰ったばかりの画材で、海瑠は桜を描いた。花が盛りと咲いている時もあれば、紅葉がはらはらと美しく舞い散る時もあった。
  その後、冷えた体を暖めるために、大学の構内を通り抜けて駅前のミスター・ドーナツに入る。海瑠にはホットチョコレートにエンゼルクリームとハニーディップ、踏青はコーヒーをオーダーした。いつも、同じメニューだった。
  海瑠が絵を描いている時にはまったく無言だった踏青が、ロックンロールが鳴る中、海瑠の隣にぴたりと座って、ドーナツを頬張る海瑠に、何かと話し掛けてくれた。
  学校は楽しいか、いじめられたりしていないか、身長はどれだけ伸びたか、どの科目が好きか。
  他愛無いように感じられるこの会話を、海瑠は何よりも待ち望んでいた。
  家には、瞬と菜摘、伶華がいるが、瞬と伶華の視線は、いつでも菜摘だけに注がれていた。優しく接してくれる伶華も、天知が小さいころから喘息を持っているため、海瑠よりも天知に手が取られていた。家族のどこにも、海瑠を構ってくれるだけの余裕が無かったし、海瑠は大丈夫だという暗黙の安堵のようなものがあった。
  それを肌で感じ取っていた海瑠は、我侭を言うことも、駄々をこねることも出来なくなっていた。それをさせてはくれない雰囲気が、家族の中に漂っていた。
  そんな海瑠が、子供らしさを取り戻せるのが、踏青と一緒にいる時だった。
  通学電車で気になる男の子、楽しかったこと、悔しかったこと、とりとめもない事を懸命に話す海瑠に対して、踏青は決して自分の意見を押し付けることなく、じっと頷きながら聞いてくれた。海瑠にとっては、自分の存在を踏青がすっぽりと受け入れてくれているように感じられて、自分の中の乾ききっていた何かが満たされるのを、強く感じた。海瑠がこの世で自分が存在することの喜びを、踏青は与え続けてくれていた。
  しかし、踏青が帰る間際にする質問を、海瑠は恐れていた。それは、踏青が帰ってしまうことのきっかけであり、踏青は海瑠だけを見つめているわけではないという、何よりの証拠だった。
「おかあさん、絵、描けるようになったか?」
  その瞬間、海瑠は心が哀しみで、ブラックホールのように内側に向けて集束していくように感じた。
  海瑠は、踏青の目を見ないようにして、首を横に振る。
「……そうか」
  気落ちしたような、踏青の声と、溜め息が漏れる。
  海瑠は哀しみを隠すため、ドーナツを包んでいる蝶の羽のように薄い紙を、手の中でクシャクシャにした。
  「おかあさん」、その言葉は海瑠にとって、奇妙だった。海瑠は菜摘を「おかあさん」と呼んだことはない。海瑠にとっての母親は、菜摘であり、伶華でもある。二人に向かって、同じ「おかあさん」は使えなかった。海瑠にとっては、菜摘は「菜摘さん」でしかなく、伶華は「伶華さん」でしかなかった。
  哀しみで軋む心に、自分が普通の家庭で育っていないという事実が覆い被さると、海瑠は泣きたいような気持ちに押し潰されていく。
  目を上げた海瑠に、同じように哀しい目をした、老いた踏青が飛び込んできた。
  海瑠は、素早く視線を逸らせた。それは、見てはならない光景に思えたからだった。
  帰り際、大きなお持ち帰り用の箱一杯に、踏青はドーナツを買って海瑠に持たせてくれた。
  大きな箱を抱えて、駅の改札で踏青と別れる時、海瑠は自分の胸がギリギリと傷むのを感じていた。そのまま何でも包み込んでくれる踏青の後を追って、奈良まで付いて行きたかった。
  そんな海瑠の気持ちがわかるのか、踏青は何度も振り返りながら人ごみの中に紛れていった。




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