海瑠 (KNIGHT 8)

  環は笑顔とともに、銀のトレイに乗ったトークンとクレディットカードを、客のテーブルにそっと載せた。
  “MOON-BOW”の二階は、赤と黒とゴールドの空間。ここは、カジノになっている。
  一階のバーは、古い日本家屋が解体される時、オーナーが直談判して譲り受けた囲炉裏の炎で燻された梁と、漆喰が使われ、家具も深いブラウンと燻し銀で統一されている。しかし、二階は全く違っていた。
  闘争心を煽るようにか、暗い室内のいたるところにアクセントとして赤が使われている。押さえた照明、暗い色の壁紙といい、穴蔵にいるような錯覚さえする。そんな中で、客は金を賭けて遊ぶ。
  仕事場とはいえ、環はこのカジノはあまり好きではなかった。バーのほうが、余程落ち着く。
  環はドレスの裾を摘み上げ、軽やかに階段を降りる。
  エントランスを横切る時、ピンヒールの音が響く。ベージュのマーブルの中の万華鏡。自分の姿が仄かに映し出された壁を意識しながら、少し乱れた盛り花を、優しい手つきで直してやる。
  クロークの横の通路を通り抜け、ドアを開けると、また階段を降りる。地下には、ワインのセラーと事務所がある。
  実際には、客に汚い所を見せないために、二階から一階の厨房、事務所と続く階段があるのだが、息が詰まりそうになると、環は花を見るために遠回りをした。
  濃いブルーで塗られたドアをノックし、環は素早くドアの隙間から体を滑り込ませた。
  コンクリートが剥き出しの何も無い部屋で、浅井は机に向かい、ラップトップのパソコンから、データを入力している。忙しく動き回る指、ここのところの不景気からか、画面を見る目が、鋭い。
「浅井さん」
   環の声に、少し浅井は顔を上げた。が、また下を向く。少し、やつれたように見える。環は机に近付いた。
「遙さま、酔ってしまわれたようですわ」
  浅井は少し頷いた。
「今、どうなさってます?」
  浅井の問いかけに、環は答える気配すらみせない。痺れを切らせて目を上げた浅井に、浅井を睨みつけている環の瞳が飛び込んできた。
  パソコンの電源を切ると、虫の羽音のような幽かな音が止んだ。
「怒ってるんですね」
  浅井の言葉にも、環は表情一つ変えない。きっと、飲んだことのない女性に、食事にも行かずに酒を出したことを、腹に据え兼ねているのだろう。
  いつも、環は自分のことよりも、人のことで向きになる。浅井はそんな環の怒った顔を見つめながら、初めて会った頃と変わらないと感じた。
「私は、敏感な舌で、カクテルを楽しんで頂きたかったのですよ。ただ、それだけです」
  まだ環は、浅井を睨んでいる。
「今、どこに?」
  環は小さく溜め息をつくと、やっとまともに答えた。
「チェイサーをお出しして、庭で風に当たってらっしゃいます」
「舷内さまは?」
「甲斐甲斐しくお世話なさってますわ、ジャケットを掛けてさしあげたり、それはもう」
  浅井の意地悪な心が頭をもたげる。
「羨ましいんですね」
  環の瞳がキラリと光ったように思えたのは、浅井の思い過ごしだろうか。環は首を傾げてそっと右手でパールのピアスを弄びながら、微笑んだ。
「私には、ナイトはおりませんもの」
「ここにいるじゃありませんか」
  環は真っ直ぐ浅井に向き直った。
「まあ、……同士だと思っておりましたわ」
  浅井は大きな輪に繋いだ鍵束を環に渡しながら、耳元で囁いた。
「ナイトより、同士と思っていただけて光栄です、環」
  環は鍵束を両手で包み込むと、合わせた手を、通った鼻先に押し当てた。閉じた瞼がほんのりと紅い。
「今日は、もう、戻られないのですね」
  浅井は瞳を上げた環に、頷いてみせた。
「海瑠に、……思う存分、自分の絵を描いてくださいと、伝えてください」
  環の声は心なしか震えているように浅井には聞こえた。切れ長の冴えた瞳が、なぜか潤んでいる。
  心底優しい人なのだ。
  浅井は、自分が失いつつある感情を、まだ瑞々しい少女のように持ち続けている環を眩しく感じながら、この十数年で自分が変わってしまったことを思い知らされた。しかし、変わらなければ、この“MOON-BOW”は無かっただろう。仕方がないことなのだ。ここを護るためには、自分が変るしかなかったのだから。
「承知しました」
  浅井は環の背中に腕を回すと、優しくエスコートしながら無機質な事務所から通路へ出た。環の馨りが、柔らかく浅井を包み込んだ。




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