海瑠 (風6)

  私は、どこにいるのかしら?
  摩耶は飛んでいた。ずっと下のほうに、山や森、蛇行しながら流れる川が見えている。
  夢、きっと夢。飛んでいる夢は、ここしばらく見ていなかった。
  嫌い、飛ぶ夢は。だって、最後は必ず墜落するもの。
  ジェットコースターが失墜する時のような、ふわりとした感覚が摩耶を襲う。
  来たわ!! 醒めて、夢なら醒めてっ!!
  飲み込まれるように墜落していた体が、急に途中で止まったような気がした。硬く閉じていた目を、恐る恐る開けてみる。
  ここは、どこ?
  摩耶の足元には、青い空が広がっている。仰いでみると、頭上には、紺碧の水面が広がっていた。
  助かったのね。
  小さく息をはく。
  その途端、いきなり、水面が摩耶に近付いてきた。
  だめ、だめ、溺れてしまう。
  摩耶は海に投げた小石のように逆らうこともできず、ただひたすら水面へと引き寄せられていく。絶叫が、糸を引いたように摩耶に纏わりつく。
  目の前が青い空から蒼い水へと変り、幾千もの小さな水の泡が、もがく摩耶の体に纏わりつきながら足元へと落ちていく。前が見えない。
  やっと泡が消えた時、摩耶は別の空間に浮かんでいた。
  薄暗いその空間には、地面も無ければ、空も無い。どちらが上なのか、下なのか、全く見当もつかない。
  摩耶の意志で、体を動かすことはできた。進もうと思えば、滑るように体が移動していく。
  彼方に、ぼんやりと白く何かが浮かんでいるのが見えた。
  なに、あれは。
  摩耶は近づいていった。
  それは、象牙細工のような海瑠だった。そっと目を閉じ、ピエタのような表情をしている。
  摩耶はぴたりと動けなくなった。
  それは、摩耶の心にある海瑠に対する警戒心が、体にも、そして心にまでも急ブレーキを掛けていた。事実、美術展で海瑠と菜摘に会ってからは、摩耶は海瑠を避けてきた。紫穂に、お茶のお礼ぐらい言いなさいと叱られてしまうほどだった。
  でも、摩耶には海瑠がとても危ない人に思えていた。堪えられないぐらい、惹き付けられてしまう人。でも近づけば、今までの自分を破壊されそうなほど、危険な人。
  両極端に揺れ動く心は、摩耶の胸に穴を開けそうな勢いがあった。もし、小さな穴でも開いてしまえば、あのフラッシュバックが始まるきっかけになるかもしれない。摩耶は、海瑠を避けることが自分を守ることだと、あの日から海瑠に靡こうとする自分に言い聞かせてきた。
  なに、これは、なに?
  海瑠の廻りを、何か白いものが舞い飛んでいる。
  摩耶はひらひらと舞い飛ぶ白いものを、手のひらを重ねて受け止めた。
  舞い込んできたのは、桜の花びらだった。薄紅色の花びらは、海瑠の言葉を思い出させた。
「欲望や怨念を吸って、桜はあれだけ美しく咲くのだと思いませんか?」
  これは、海瑠さんの、欲望、怨念なの?
  また風が吹き、摩耶の手から花びらを奪い去っていく。摩耶の髪も、弄ばれている。
  風はだんだん強くなってきた。舞い散る花びらの数も増えているようだ。
  轟々と風が吠えるなか、摩耶は髪を押さえ、顔を上げて海瑠を見た。
  摩耶は動くことも忘れ、目を見開きその光景を凝視した。一体何が海瑠に起こっているのか、摩耶にはまだ分からない。
  切り裂くように吹く風が、鞭のように撓いながら海瑠に纏わりつくと、まるで白く細い竜のように、海瑠の体から何かが四方に向けて飛んでいる。その竜も、数秒も経つと、解き放たれたように勢いを失いながら、外側から崩れ落ちて正体を無くしていく。
  後には淡雪が緩やかに舞い下りるように、白い花びらがゆったりと空間を占領しながら落ちてくる。
  摩耶は息を呑んだ。今、やっと、海瑠がどうなっているのか理解したのだ。
  疾風が捲き起こるたびに、海瑠の体が花びらになり、散っているのだ。
  このままでは、海瑠さんが無くなってしまう。それも、目の前で散ってしまう。
  摩耶の心のブレーキは粉々に砕け、摩耶は海瑠へと踏み出した。
『海瑠さん、海瑠さん!!』
  摩耶は取り乱し、海瑠に向け、走りながら叫んだ。しかし、声が出ない。
  急に体が止まった。泳ぐように、浮かぶように突き進んでいた摩耶を、見えない壁が押しとどめたのだ。
  あと数ミリで海瑠に触れられるのに、何かが阻んでそれ以上、手を伸ばすこともできない。
『お願い、海瑠さん、起きて、起きて!!』
  摩耶の目の前で、海瑠はどんどん花びらとなり、散り去っていく。花びらは色を濃くし、今では鮮血のように紅い。海瑠の顔だけが、今はやっと残っている。
『海瑠さん、海瑠さんッ、目をあけてッ!!』
  喉から血が出そうなほど叫んでいるのに、声も出ない。摩耶は何も出来ない無力な自分自身を呪いながら、もがき、そして泣きじゃくっていた。
  嵐のように風は吹きすさび、花びらを、摩耶の髪を、捲き上げる。
  海瑠さんが、このままじゃ、無くなってしまう!!
  強い突風が一陣吹いたかと思うと、海瑠は全部花びらになり、消え去ってしまった。
  とたんに、摩耶を阻んでいた何かが消え、つんのめるようにして、摩耶は倒れ込んだ。
  伸ばしていた摩耶の手に、紅の花びらが一つ、ひらひらと舞い下りた。
「いやーっ!!」



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