海瑠 (風 4)

  陸橋の下を、轟音をたてて黄色い電車が走り過ぎていく。緑の並木道のむこうには、カテドラルのクロスが金色に光っている。
  陸橋を渡り、大学の裏門からクワッドを回り込むようにして教室に向かうこのルートは、遠回りだった。しかし、あまりにも沢山の学生で溢れかえっている駅前を突っ切る近道は、海瑠の嫌いなルートだった。特に、これから早めのランチに繰り出そうと、着飾り、群れている女子大生をすり抜けていくのは、どうしても避けたかった。
  こじんまりとした住宅と大使館が入り交じる一郭にさしかかった。もう少しでキャンパスだ。なんとか、二限目の授業に滑り込めるかもしれない。
  幾つかの四つ角を通り過ぎた時、海瑠はブレーキレバーを握り締め、右足を地面につけて、素早くUターンした。
  誰かが蹲っていたような気がする。
  その誰かが、自分を呼んでいるような気がする。
  角を曲がった海瑠の目に飛び込んできたのは、5メートルほど先に蹲る小さな人影だった。
  苦しいのか、膝を折り曲げて倒れ込んでいる。右手を地面につけて辛うじて上半身を支えていたが、海瑠の目の前で額を右の手の甲に押し付け、一段と小さくなってしまった。
  中学生だろうか。白いブラウスにダークなチェックのスカートを着ているが、あんな制服は見たことが無い。
  どこの生徒だろう。海瑠は知っている限りの制服を思い出す。でも、あのチェックを使った制服は見たことがないようにも思える。
  海瑠は道路の隅にロードレーサーを横倒しにすると、小さな人影に駆け寄った。
  掛けようとしていた言葉が、海瑠の血の気とともに、一気に失せていく。
  倒れていたのは、摩耶だった。
  摩耶を揺さぶって起こしたい気持を、海瑠の冷静さがやっと押え込んでいた。
  なぜか涙が溢れ出し、アスファルトと摩耶の姿をぐにゃぐにゃに歪めている。子供のように摩耶に縋り付き泣きじゃくりたい気持ちが込み上げる。
  海瑠は当惑しながら、涙を手の甲で拭い去った。
  海瑠は蹲ったままの摩耶の肩に手を置くと、はっきりした声で話し掛けた。
「摩耶、聞こえますか?」
「──海瑠さん」
  摩耶の意識があったことに海瑠はほっとした。
  しかし、それよりも、顔も上げていない摩耶が自分の名前を呼んでくれたことに、なぜか言いようも無いほど喜びを感じていることに、ドキリとしていた。
  外傷がないことを確認してから、海瑠はそっと摩耶を抱き起こした。
  小麦色の肌が、今日は土気色に変わり果てている。冷や汗だろうか、額の周りに濡れた髪が貼り付いていた。苦しいのだろうか、時々眉間に皺をよせ、とても辛そうな表情を見せる。
「大丈夫ですか? 一体、どうしたんです」
  摩耶は海瑠の腕の中で、そっと目を開いた。
「貧血……です、……めまい、ああ、見えないわ、何も」
  海瑠は摩耶の瞼を、手でそっと押さえた。
「目を閉じて。目を閉じていれば、少し楽になります」
  幽かに摩耶は頷き、瞳を閉じると静かになった。
  海瑠は目を上げて町の佇まいを見た。このまま日向に座り込んでいるわけにもいかないだろう。金子の家に戻るには、遠すぎる。“House of Reeds”に行くのが一番近いだろうが、あんなにうるさい中では、ゆっくりと横になることもできないだろう。第一、周りの人間に何を言われるかわかったものではない。自分はともかく、摩耶に迷惑だろう。
  海瑠は振り返った。
  そうだ、あそこがある。
「摩耶、首を振って答えてください。吐き気は?」
  摩耶は首を横に振った。
「今、履いているのはスカートですか?」
  摩耶は首をわずかだが横に振った。
「じゃ、おんぶで行きましょう」
  摩耶のいやいやに、海瑠は微笑んだ。
「わかりました」
  海瑠は摩耶のトートバッグを引き寄せて肩に掛けると、摩耶を横抱きにして立ち上がった。



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