海瑠 (集束7)

  やっと周りを見渡せるだけの余裕が出来てきた。
  摩耶は、青年がメモを取る姿をぼんやりと眺めた。
  不思議な姿勢で、メモを取っている。長い手足をちぢこめるようにして、机に這いつくばっているのだ。なぜ、あんな疲れるようなことをするのだろう。
  床を走り回っている蜘蛛ような青年の動きは、摩耶の動悸も、心の揺り戻しも、自然と静めてくれた。
  左利きなのだ、彼は。彼の左ひじが当たったのだ。
  できるだけ摩耶に迷惑をかけないようにと、机の右端にノートを置き、体を左に倒して這いつくばるようにしている。それでもリーチが長くてぶつかったのだ。
  摩耶はもう一度、二の腕の中に顔を埋めた。ゆっくり息を吸い込み、惜しむように吐き出した。
  助かったんだわ。
  摩耶は頭をもたげた。まだ少し吐き気がした。
  マイクが一巡して、学生部長に帰ってきている。少し咳払いをし、もったいぶって学生部長が話始めた。
「………一回生での学科必須科目の時限は、二回生のそれと全く同じ時限になっています。言い換えれば、一回生で必須科目を一つでも落とせば、四年間で卒業するのは、不可能となります。同じ事は、三回生、四回生になっても起こりえます。大学は、総合レジャーセンターのように言われていますが、我が校に関しては、勉強もある程度しないと卒業はできません。覚悟しておいてください。本当に勉強しなくてはならないのは、大学、そして社会に出てからです」
  階段教室の学生たちは、オリエンテーションの終わりを嗅ぎ付け、ざわめき始めた。
「もし、何か困ったことがあったら、矢部の所まで来てください。いつでも相談に乗ります。では、オリエンテーションを終了します」
  学生部長がマイクを降ろすと同時に、学生は一斉に出口へと殺到した。黒い生き物が増殖しているようだ。それはすぐに通路にまで広がり、またノロノロの列が出来ている。
  みんな同じように見えてしまう。不気味な光景。
  摩耶は、あの列にだけは加わりたくないと思った。
  どうやら、落ち着いてきた。自分自身が戻ってきてくれた。
  首を左右に軽く振ると、髪がさやさやと揺れた。自分が実在しているという感覚を、その髪の動きが教えてくれる。ペンケースにシャーペンを戻す。
「さっきは、ありがとう」
  右側の青年が、右手をいきなり無防備な摩耶のほうに突き出した。
  目を上げた摩耶には、屈託のない青年の笑顔と、培養されたような学生の列が映った。


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